天活との競合とは? わかりやすく解説

天活との競合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/24 14:06 UTC 版)

小林商会」の記事における「天活との競合」の解説

1916年秋に休止していた製作を再開、元福宝堂脚本家篠山日活向島撮影所から引き抜いたほか、天活役者多く引き抜いた中村秋孝、佐川素経、静田健、多知花静衛、石川新水寿郎、村瀬蔦子小堀誠高部次郎市川海老十郎栗島狭衣井上正夫木下吉之助、武田清子といった人材である。井上正夫女形ではなく女優起用した新時代協会」(1910年結成)の代表であり、栗島狭衣当時子役として活躍していた栗島すみ子養父である。 1916年大正5年10月30日、『母の心』(京橋豊玉館ほか)と翌31日『霊火』(浅草みくに座)が製作再開作品である。その後撮影部長井信一天活から引き抜き時代劇について歌舞伎界からの新し俳優迎えるほかは、香川二郎藤村芳衛藤村秀夫、梅島昇石井薫山口勝太郎松下太郎阪本忠夫、島田喜多子、島田小次郎関根達発深沢恒造、中野信近といったおもに現代劇俳優をなおも天活から引き抜き、翌1917年にはフル稼働55本もの映画量産した。 同社天活ライヴァル視し、量産とともに奇策放った1917年3月11日天活製作した人気作家菊池幽芳原作村田正雄主演映画毒草』の公開日に、まったく同じ原作、同じタイトルで、天活から引き抜いた井上正夫監督栗島狭衣脚本そしてふたりの主演による『毒草』をぶつけてきたのであるさらには同月内に、同一原作高部次郎主演中篇映画毒草』を公開している。浅草では、大勝館天活)と三友館小林)で、同日2本の異なった毒草』が同時に上映されたほか、同月中にみくに座でもう一本べつの『毒草』が公開された。 また同年前年1916年東京パック社から引き抜いた漫画家幸内純一アニメーション映画をつくらせたが、これは1915年日活向島撮影所洋画家北山清太郎採用しアニメ研究初め天活もこれにならい下川凹夫採用したことで競争始まった最終的に天活の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が1917年1月公開されて、「国産初のアニメ映画」の称号勝ち取ったわけだが、小林商会はこれに6か月遅れて同年7月にやっと幸内監督の『塙凹内名刀之巻』を発表できた。

※この「天活との競合」の解説は、「小林商会」の解説の一部です。
「天活との競合」を含む「小林商会」の記事については、「小林商会」の概要を参照ください。

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