天活との競合
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1916年秋には休止していた製作を再開、元福宝堂の脚本家篠山吟葉を日活向島撮影所から引き抜いたほか、天活の役者を多く引き抜いた。中村秋孝、佐川素経、静田健、多知花静衛、石川新水、桂寿郎、村瀬蔦子、小堀誠、高部幸次郎、市川海老十郎、栗島狭衣、井上正夫、木下吉之助、武田清子といった人材である。井上正夫は女形ではなく女優を起用した「新時代劇協会」(1910年結成)の代表であり、栗島狭衣は当時子役として活躍していた栗島すみ子の養父である。 1916年(大正5年)10月30日、『母の心』(京橋豊玉館ほか)と翌31日『霊火』(浅草みくに座)が製作再開作品である。その後も撮影部の長井信一を天活から引き抜き、時代劇について歌舞伎界からの新しい俳優を迎えるほかは、香川二郎、藤村芳衛、藤村秀夫、梅島昇、石井薫、山口勝太郎、松下彦太郎、阪本忠夫、島田喜多子、島田小次郎、関根達発、深沢恒造、中野信近といったおもに現代劇の俳優をなおも天活から引き抜き、翌1917年にはフル稼働で55本もの映画を量産した。 同社は天活をライヴァル視し、量産とともに奇策を放った。1917年3月11日、天活が製作した人気作家菊池幽芳原作、村田正雄主演の映画『毒草』の公開日に、まったく同じ原作、同じタイトルで、天活から引き抜いた井上正夫監督、栗島狭衣脚本そしてふたりの主演による『毒草』をぶつけてきたのである。さらには同月内に、同一原作、高部幸次郎主演の中篇映画『毒草』を公開している。浅草では、大勝館(天活)と三友館(小林)で、同日2本の異なった『毒草』が同時に上映されたほか、同月中にみくに座でもう一本べつの『毒草』が公開された。 また同年、前年1916年に東京パック社から引き抜いた漫画家幸内純一にアニメーション映画をつくらせたが、これは1915年に日活向島撮影所が洋画家北山清太郎を採用しアニメの研究を初め、天活もこれにならい下川凹夫を採用したことで競争が始まった。最終的には天活の『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が1917年1月に公開されて、「国産初のアニメ映画」の称号を勝ち取ったわけだが、小林商会はこれに6か月遅れて、同年7月にやっと幸内監督の『塙凹内名刀之巻』を発表できた。
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