天智・天武交代期の部分改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/15 15:16 UTC 版)
「冠位二十六階」の記事における「天智・天武交代期の部分改正」の解説
『日本書紀』の記述をたどると、天武天皇2年以降に、それまでには知られない冠位を持つ例が現われる。一つは内位と外位、もう一つは皇族に対する諸王の位である。外位の制度は、地方出身者を登用する際に、授ける冠位を外位として、畿内出身者と差を付けたものである。諸王の位は、それまで冠位を与えられなかった皇族に対し、冠なしの位を与えて序列化したものである。 二つの新機軸の導入について触れる史料はなく、正確な時期と制度の詳細は不明である。どちらも外部から別個に付け加えた修正で、かつ、同時に導入されたと考えなければならないわけではない。制定年の下限は初見である天武天皇2年(673年)だが、天智天皇の時代ではその10年(671年)が有力である。 『日本書紀』には、天智天皇10年(671年)に大海人皇子が宣命して冠位法度を施行したとある。書紀は冠位については律令に詳しく書いてあると記すだけで、その内容を記さず、また律令がどのようなものかも説明しない。その前後の冠位名は外位・諸王の位が現われるだけで基本的には冠位二十六階が踏襲されている。ならば冠位法度とは外位と諸王の位を定めたものだという説である。 冠位法度の記事をめぐっては、他にも多くの学説がある。天智天皇の段によくある重複記事で、実は天智3年(664年)の冠位二十六階制定が再録されたと推定する人もいる。そうではなく、施行済みの冠位制を含めた諸法律をまとめたのが冠位法度だと説く人もいる。そしてこの冠位法度こそ日本最初の令とされる近江令だとする説もあるが、近江令には不存在説もあって、学説状況はかなり入り組んでいる。 改正の意図については、むしろ天武天皇の施政に関連付ける説が強い。外位は畿外の地方出身豪族に授けられており、壬申の乱で功を立てた地方出身者の処遇に悩んだ結果作られたのではないかと思われる。諸王の位も、天武天皇が皇親政治を実施して、それまで役人にならなかった皇族を様々な官職に任命したことに関わると考えられる。もしこれらの推定が正しいなら、天武天皇がその治世の元年(672年)か2年(673年)に制定したことになる。
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