天明天保の大飢饉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 天明天保の大飢饉の意味・解説 

天明・天保の大飢饉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 17:49 UTC 版)

八戸藩」の記事における「天明・天保の大飢饉」の解説

八戸藩は、天明の大飢饉深刻な打撃を受け、百姓一揆起き年貢増徴による藩財政改善見込めない状況に陥っていた。このため八戸藩運営御用商人からの借り入れに頼らざるを得なくなっていた。そんな中時の藩主南部信真野村軍記登用し文政2年1819年)、「国政御主法替」と称する藩政改革乗り出した。その一環として八戸藩最大産物である大豆専売制開始。もともと大豆流通に力を持っていた商人たち排除しあらたな御用商人登用した。その過程で、従来最大権勢誇っていた七崎屋を取り潰した。文政6年には大野鉄山を藩営とし、実際の運用西町屋に任せて利益を藩に収めさせた。天保3年1832年)、天保の大飢饉発生八戸藩では領知2万石のうち1万1千石損毛となる大凶となった翌年も8割の減収となった。藩は財政窮し御用商人西町屋や美濃屋銀札発行させ、預かり小切手発行して米や食糧買占め行おうとした。しかし、インフレ急激に進行し経済大混乱となり、天保5年には久慈農民一揆をおこし、民衆八戸城下へ押し寄せる事態となったいわゆる「稗三合一揆」である。これは、藩が1人1日三合食糧残して残り全て価値激減している銀札小切手買い占めようとしたことから、このように呼ばれた一揆に対して野村軍記武力鎮圧主張した採用されず、一揆側主張をほぼ受け入れる形で決着した。そのため野村軍記進めていた藩政改革はほとんどが否定されることになり、野村自身失脚幽閉され間もなく死去した

※この「天明・天保の大飢饉」の解説は、「八戸藩」の解説の一部です。
「天明・天保の大飢饉」を含む「八戸藩」の記事については、「八戸藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「天明天保の大飢饉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「天明天保の大飢饉」の関連用語

天明天保の大飢饉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



天明天保の大飢饉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの八戸藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS