大趙天王に即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
同月、左校令成公段に命じ、太い木棒の先端に庭燎(篝火)を造らせた。その高さは10丈余りあり、上盤には燎を置き、下盤には人を置き、太い綱で上下を止めた。石虎はその完成を見て喜んだ。 337年1月、太保夔安を始めとした文武官509人は石虎へ尊号を称するよう勧める為、宮殿へ向かった。だが、夔安らが入殿した時、庭燎の油が下盤に流れ出してしまい、20人余りの死者が出た。石虎は激怒し、成公段を闔門において腰斬に処した。 後日、石虎は夔安らの勧めを容れ、殷・周の制度に依るとして大趙天王を称した。南郊において即位すると、殊死以下に大赦を下した。祖父の㔨邪を武皇帝と、父の寇覓を太宗孝皇帝と追尊し、鄭桜桃を天王皇后に、子の石邃を天王皇太子に立てた。また、王に立てていた諸子をみな郡公に降封し、王に立てていた宗室を県侯に降封し、百官にも各々格差をつけて任官を行った。 この時期、太原の流民500戸余りが後趙から離反し、黒羌に亡命した。 武鄉郡長城県の流民である韓強が玄玉璽を発見した。その四方は四寸七分の長さがあり、亀紐には金文があった。韓強は鄴に出向いてこれを献上したので、その功績により騎都尉を拝命し、その一族は賦役や租税を免じられた。これを受け、夔安らは再び石虎の下へ進み出て「臣らは謹んで案じます。大趙は水徳であり、玄亀は水の精であります。また、玉は石の寶であり、分の数は七政を、寸の紀は四極を象徴しております。これは昊天が命を成したものであり、久しく違うべきではありません。そこで、史官に命じて吉日を選ばせ、礼儀を具えるのです。昧死して皇帝の尊号を称する事を望みます」と進言した。石虎は下書して「過ぎたる褒美が猥りに推逼されており、これが増えているのを覧じる度に恥じ入るばかりである。これは望む所ではなく、速やかにその議を止めるように。今、告始(瑞祥の始まり)は東より生じたものであり、京城の内外とは関係がはない。これに慶を表する事はない」と述べた。中書令王波は『玄璽頌』を献じ、これを称賛した。 この璽はもともと石虎が石弘の時代に造らせた物であったが、紛失した物を韓強がたまたま発見して献上したのだという。
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