大越の先制攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 16:56 UTC 版)
熙寧8年(1075年)、王安石は、チャンパとの騒乱から間もない大越国は国情や生産力が安定していないものと見て取り、神宗に大越への派兵案を奏上する。 一方で大越側においても「宋南部で軍艦造船と水戦の演習が頻繁に行われている」「国境付近で、貿易が禁じられた」などの情報を受け「先制攻撃」を決断。この年の10月、大越軍は二手に分かれ宋領内に進撃を開始した。山岳民族の長の申景福(中国語版)(タン・カイン・フク)や儂宗亶(中国語版)が指揮する隊は陸路で邕州に攻め込む。一方で李常傑が指揮する隊は海路で宋に上陸し、欽州(現在の広西チワン族自治区欽州市)、廉州(中国語版)(現在の広西チワン族自治区合浦県)等の地に進軍する。宋侵攻にあたり大越軍は「王安石の悪法に苦しむ民衆を助けに来た」との名目の元、隊の先頭には青苗法など王安石が施行する様々な改革案を痛烈に批判する一文『伐宋露布(ベトナム語版)』を隊の先頭に掲げ進軍している。その一方で侵攻地においては容赦ない破壊と殺戮を繰り広げた。申景福が率いる陸軍の攻撃を受けた邕州は42日間の籠城戦の末に陥落し、知州(中国語版)の蘇緘(中国語版)は降伏を潔しとせず、自ら火を放って一族36人もろとも自決。『大越史記全書』は戦線の惨状を「盡屠五萬八千餘人、并欽、廉州死亡者幾十餘萬人、常傑等俘虜三州人而還」と記す。
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