大日本プロレス - 全日本プロレス
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「本間朋晃」の記事における「大日本プロレス - 全日本プロレス」の解説
高校2年の時に一度新日本プロレスのテストに挑むも入門できずアニマル浜口ジムに入門し、1年間トレーニングを積みながらみちのくプロレスに合格したが先輩たちとソリが合わず、わずか1週間で逃げ出してしまったため あらためて浜口ジムで練習を重ね大日本プロレスに入門、プロレスデビューは1997年5月18日、大日本プロレスの益子町興行における高橋秀幸戦であった。 本間は大日本で過激なデスマッチを繰り広げエースとして活動し、シャドウWX、山川竜司と共に「デスマッチ新世代」を形成。現在、大日本の名物ともなっている蛍光灯デスマッチを流行らせた。2000年には最年少でBJW認定デスマッチヘビー級王座に二度も戴冠した が、同年10月に退団した。当時統括部長だった登坂栄児社長はこの本間の退団を「ランナウェイした」と形容した。 以降はフリーランスとして活動し、2001年11月24日の全日本プロレスの興行に参戦した際に馬場元子社長より声をかけられ全日本への誘いを受け2002年3月23日に全日本プロレスに入団。元子社長の指名で武藤敬司の付き人を務めた。2003年より始まった宮本和志とタッグチーム「ターメリック・ストーム」を結成する。しかしタッグとして勝ち星に恵まれず2004年4月10日より「試練の6番勝負」では全敗を喫し、21日にターメリックは解散となった。宮本は海外修行の為団体を離れ、本間だけは全日本に残った。2004年7月には全日本の一員として武藤との対戦を迫る棚橋弘至の前に壁として立ちはだかり対戦している。 2005年の世界最強タッグ決定リーグ戦を前にヘルニアを発症し欠場に入り 2006年5月1日付けで全日本を退団して、再びフリーとなった。その後はZERO-ONEやハッスルなどに参戦しつつ 9月24日、アパッチプロレス軍主催興行で葛西純とタッグを結成。大日本退団以来のデスマッチに挑戦し佐々木貴 & BADBOY非道組の保持するWEWタッグ王座を奪取した。
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