大内輝弘の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 06:30 UTC 版)
詳細は「大内輝弘の乱」を参照 永禄12年(1569年)、大友宗麟が毛利元就と北九州地域の覇権を巡って争った際、大友軍は毛利軍の攻勢の前に一時は壊滅の危機に立たされていた。宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、宗麟は客将となっていた輝弘に兵を与え、同年10月11日に若林鎮興らの大友水軍を付けて密かに海上から周防国秋穂に上陸させた。輝弘の率いる兵力は少なかったが水上戦では市川経好の軍を撃破した。 将軍にも認められた大内氏の一族だというので輝弘が周防国に入ると毛利氏の支配に抵抗する大内氏の遺臣がこれに呼応し、周防国の毛利軍はその大半を北九州の戦線に投入していたため、苦戦を強いられた。しかし、高嶺城を守る市川局経好夫人が少ない城兵を指揮して徹底抗戦した。 輝弘は守護所山口の大内氏別邸築山館には入ることはできたものの、山間の城までは完全に占領することができなかった。 輝弘の攻撃を知った元就は北九州攻略を諦め、即座に軍を返して吉川元春と小早川隆景率いる精鋭を周防国に向かわせた。輝弘はその報を受けると山口での抵抗を諦め、海路での脱出経路を探るべく海沿いへ脱出するが追撃厳しく、10月25日に子の武弘らと富海(とのみ:現在の防府市)の茶臼山で自害した(大内輝弘の乱)。 輝弘の山口侵入によって毛利軍は本州に撤退せざるを得なくなり、大友氏は筑前国など北九州の毛利方の諸城の奪回に成功した。
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