山口での攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 05:30 UTC 版)
10月12日、大内輝弘は陶峠から山口に侵入。毛利方は、平野口を山口町奉行の井上善兵衛尉就貞が、小郡口を信常元実が守っていたが、数に勝る輝弘勢が糸根峠で激戦の末に井上隊を打ち破り、就貞は戦死した。 続いて、三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎などを斬り、輝弘軍は龍福寺と築山館を本営として毛利勢の籠もる高嶺城攻略を開始。高嶺城主の市川経好は九州へ出陣中であったため、内藤就藤や山県元重、国清寺の住持・竺雲恵心らがわずかな城兵でその留守を守っていたが、在郷の士である有馬善兵衛、津守輔直、寺戸対馬守らが乗福寺の代僧と共に急遽登城して籠城に加わり、経好の妻・市川局も鎧を身にまとって城兵を鼓舞したため、この日は高嶺城は落ちなかった。輝弘は翌日も高嶺城への攻撃を再開したが、高嶺城の出城も落とすこともできず戦線は膠着した。なお、この山口侵攻によって大内縁故の寺院の多くが焼け、宝物が失われている。 長門国赤間関に陣を敷いて九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、13日に急報を受け取ると九州からの撤退を指示。15日から九州撤退を開始し、18日に長府に到着、21日に吉川元春と福原貞俊が10,000の兵を率いて山口に急行する。元春は大内方に組した者たちを徹底的に討伐しながら進軍した。 山口への救援としては石見国津和野の吉見正頼の家臣である上領頼規も嫡男・頼武や伊藤実信、吉賀頼貞らを率いて駆けつけ、山口の宮野口で城井小次郎率いる輝弘軍1,000と交戦。この戦いで上領頼武や伊藤実信らが戦死している。高嶺城が落ちない一方で輝弘軍への包囲が始まりつつある状況を知った大内遺臣は、次第に輝弘軍から離散し始めた。
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