変身キリン時代
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関西パンク草創期の1979年、本田久作(ほんだ きゅうさく)が結成したニュー・ウェイヴバンド「変身キリン」に参加。キーボード、ボーカルを担当する。オリジナルメンバーにはのちにINUを経てザ・スターリンに参加した北田昌宏がいたが、北田はライブデビュー前に脱退している。同年9月14日、ライブデビュー。同年11月27日、同志社大学至誠館で開催されたライブ「関西NOW WAVE」に出演。変身キリンを含め、関西を拠点とするパンクバンド9組が出演した。 当時の日本のインディーズシーンについては「日本のパンク・ロック#1970年代(パンクムーヴメント以後)」を参照 変身キリンは本田の個人ユニットという色彩が濃く、メンバーは流動的であった。1980年2月、INUの町田町蔵が立ち上げたインディーズ・レーベル「必要レコード」からリリースされたオムニバス・アルバム『ドッキリ・レコード DOKKIRI RECORD』に変身キリンとして3曲参加。参加バンドはINU、ULTRA BIDE、ALCOHOL 42%、変身キリン、CHINESE club。当時の関西パンクシーンでは阿木譲のヴァニティ・レコードを除けば最初期の自主制作盤で、第2弾の企画もあったものの立ち消えとなった。このオムニバス・アルバムはCD化されていない。 須山は変身キリンと並行して、1980年からロックバンド「Happy Band」を結成、同年4月には変身キリンを脱退したが、翌1981年には「Happy Band」を解散して変身キリンへ復帰し、同年5月16日には変身キリンとして法政大学学館大ホールでのライブに出演。同年夏には変身キリンを再度脱退、本格的にソロ活動を開始した。 After Dinner、少年ナイフ、ルナパーク・アンサンブル、Ché-Shizu(英語版)などを輩出した京都のインディーズ・レーベル「ゼロレコード」(Zero Records/ZERO COMMUNICATIONS、京都市伏見区深草下川原町32)から、1982年に変身キリンの3曲入りEP『8月4日に』がリリース。須山は脱退後であったがゲスト参加した(2003年にインディーズ・レーベル「いぬん堂」からCD再発)。 須山の脱退後に本多は活動拠点を東京へ移し、その時期の音源は2003年に『その後の変身キリン』としてCD化された。2004年に発売されたライブCD『2004年の変身キリン アノンを探せ!』には、すでに音楽活動から離れ文筆業へ移っていた本田は参加していない。なお「アノン」は本田が自称していたニックネームである。
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