墓群成立の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 02:07 UTC 版)
当時、沙坪公園は“8・15”派の勢力範囲であった。“8・15”派は毎日のように発生する自己の犠牲者を沙坪公園内に埋葬するようになり、文革墓群の原型が形成された。最初に犠牲者が葬られたのは死者の発生とほぼ同時の1967年6月と考証されている。埋葬の穴掘りには、“反到底”派の捕虜が動員された。当初は犠牲者の氏名や単位(所属)を記した木製墓碑を立てただけだったが、1968年から、煉瓦、コンクリート制の墓碑が作られるようになった。墓碑の多くは、北京天安門広場の人民英雄紀念碑を模し、文革期のスローガンや毛沢東の詩詞が刻まれ、葬られている死者の氏名・単位・略歴などが記されている。長年の風化により、氏名などが摩滅し埋葬者不詳になっているものも少なくない。 大規模な武闘は1968年中共中央の造反派組織解体命令で終結したが、両派残党組織の小競り合いはその後も続き、犠牲者も引き続き発生した。最後に犠牲者が葬られたのは、1969年1月とされる。これ以後は都市知識青年の下放により、武闘は消滅した。 現在、文革墓群の面積は約3000平方メートルで113の墓碑があり、531名(うち404名が武闘の直接犠牲者)が葬られている。埋葬者の約三分の二は十代後半から二十代の青年で、最年少は14歳(2名)、最高齢は60歳である。女性の埋葬者も多い。墓群の敷地は西が高く東が低いなだらかな斜面で、墓碑は東向きに建てられている。これは、埋葬者の心が永遠に「赤い太陽」(文革期に毛沢東に冠せられた尊称の一つ)に向きあっていることを示している。
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