城壁の評価とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:37 UTC 版)
「コンスタンティノープルの城壁」の記事における「城壁の評価とその後」の解説
古代末期以降のコンスタンティノープル防衛において、テオドシウスの城壁が中心的役割を果たしたことは疑いようがない。20世紀にイギリスで出版された『ケンブリッジ古代史』では、「おそらく歴史上、最も成功し、影響力を持った市壁であるだろう。それは、戦略的論理上はあまりにも不安定で危険な世界の端で、街と皇帝を千年以上にわたって生きながらえさせ、栄えさせたのである。」と評されている。 大砲の登場によって城壁はその価値を大きく損なわれたが、それでもテオドシウスの城壁は十分な防衛能力を保っていた。これは、1422年のオスマン帝国による第二次包囲が失敗に終わったことからも分かる。 1453年の最後の包囲戦でも、最終的にコンスタンティノープルは陥落したとはいえ、ビザンツ帝国の防衛軍は圧倒的多数の敵による強襲や地雷攻撃を押し返し続け、オスマン軍の砲撃にも2か月にわたり耐え切った。5月29日に城壁が陥落したのは、ジェノヴァ人将軍ジョヴァンニ・ジュスティニアーニが負傷して撤退し、守備兵がパニックに陥ったためであった。勝者としてコンスタンティノープルを得たメフメト2世は、生き残った市民を動員して短期間のうちに城壁を修復させた。その後のオスマン時代を通じて、コンスタンティノープルの城壁は改修を繰り返しながら維持され続けた。
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