坂部広胖(さかべこうはん 1759-1824)
坂部広胖は、江戸に生まれ、江戸幕府旗本として火消与力の職にあった。数学を本多利明に学び、彼の塾を任されることもあり、ついで安島直円に師事し、のちに浪人となって家塾を開き関流数学の普及を進めた。著書「算法点竄指南録」(文化7 1810)には、鶴と亀が初めて登場している(「鶴亀算」)。
地図測量に係る著書には、球面三角を利用した航海書「管窺弧度捷法」(文化9年)、測量機器オクタント(八分儀)の利用について記述した「算法海路安心録」(文化13年 1816)、そして1枚刷りの世界地図「地球畧圖説」(文化14年?)があって、和算家の幅の広さをうかがわせるものである。
坂部広胖
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坂部 広胖(さかべ こうはん(ひろなお)、宝暦9年(1759年) - 文政7年8月24日(1824年9月16日))は、江戸時代中期の和算家。旧姓は戸田氏で坂部姓を経て戸田姓に復する。字は子顕。仮名は勇左衛門。号は中嶽、澗水、また晩成堂[1]。
生涯
もとは江戸幕府旗本として火消与力の職にあったが、本多利明の門に入り、後に安島直円に師事。免許皆伝を授かる。その後、浪人となって家塾を開き和算家の道に進んだ。文化7年(1810年)、『算法点竄指南録』を著し、当時の数学を広く集めて日本初の対数表を付す。同9年(1812年)には弟子の川井久徳と『創製側円術幷解』を著し、楕円周を正確に解説したほか、三次方程式の逐次近似法による解の導き方、対数、球面三角法などの優れた研究業績を残した。同13年(1816年)には航海術の計算法を説いた『海路安心録』を著している。文政7年(1824年)8月24日、死去する。享年65[1]。
脚注
参照文献
- 尾崎秀樹編『新潮日本人名辞典』(新潮社、1991年) ISBN 4107302105
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