坂本則美 さかもと のりみ
生年が弘化4年とする説もある。高知土佐郡一宮村生まれ。明治7、8年頃から貧児救育の事業を始め々社の社長となる。12年(1879)に高知県会議員に当選し、15年(1882)まで議員をつとめる。18年(1885)に、高知県令で後に京都府知事となった北垣国道の招聘で、京都疎水事務所理事となり、22年(1889)に京都市参事会員、25年(1892)には衆議院議員となる。大隈外相による条約改正に反対し、上京して直接面談し反対意見を述べ、全国に世論の喚起をもとめた。以後、総武鉄道会社、北海道鉄道会社、夕張炭鉱会社の役員などを歴任。
キーワード | 政治家, 実業家 |
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坂本則美
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 02:35 UTC 版)
坂本 則美(さかもと のりみ[1]、または のりよし[2]、1848年もしくは1850年頃 - 1913年9月15日)は、明治時代の日本の実業家、政治家。土佐藩出身。貧困児童救育事業で明治初頭に活躍し、高知県会議員を務めた。その後、琵琶湖疎水建設事業に携わり、さらに衆議院議員を務めた。さらにその後、実業界に転身し、総武鉄道社長、夕張炭鉱社長などを務めた。
注釈
- ^ 「弘化四年十一月二十六日」(矢部)、「嘉永3年」「生年が弘化4年とする説もある」(国立国会図書館)、「1848年」「弘化(こうか)4年11月26日生まれ」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)、「1850年」(『日外アソシエーツ 人名事典』)。西暦では、弘化4年11月26日は1848年、嘉永3年は1849~1850年にあたる。
出典
- 1 坂本則美とは
- 2 坂本則美の概要
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