地域的な差異、脱退 1818年-1861年
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「バージニア州の歴史」の記事における「地域的な差異、脱退 1818年-1861年」の解説
バージニア州の西部が19世紀前半に発展するにつれて、農業基盤、文化および輸送需要における大きな違いがバージニア議会の主要問題になってきた。古い東部では大きな土地がタバコや綿花を主要作物として農園化されていた。どの作物も多くの人手を必要とした。奴隷制は農園主が寄りかかる経済制度となった。この地域の大半の水系は大西洋に注いでいた。西部では小さな土地がほとんど家族以外の労働力なしで耕されており、鉱物の採掘や木材の切り出しが業として拡大していた。土地はオハイオ川渓谷の水を使い、交易もそちらの方向を向く傾向があった。 州議会の代表状況は人口の多い東部の利益のために大きく傾いていた。これは人口を数えるときに奴隷を一部勘定に入れることで作られており、奴隷の個々の者は(また全ての女性と子供も)投票権が無いという事実もあった。州憲法制定会議など格差を是正する試みが数度なされたが意味のある結論は出なかった。かくして南北戦争の開始時点で、バージニア州は全国的な危機だけでなく、その境界内の長きにわたる党派的危機にもさらされていた。他の「境界州」は同じように地域的な差異があったが、バージニア州は他の北部州や南部州よりもそれが大きく、おそらくその結果として戦争中に2つの州に別れた唯一の州となった。
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