地元の教会の指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/03 09:01 UTC 版)
「トーマス・S・モンソン」の記事における「地元の教会の指導」の解説
1950年5月7日、22歳のモンソンはLDS教会のビショップになり、5年にわたって2つのワード(LDS教会のUNIT)を指導した。その前は、ワードの書記や若い男性相互改善協会の教育長として奉仕していた。当時のモンソンが指導したワードには1000人以上の教会員がいて、その中には85人の未亡人がいた。彼はビショップを引退した後も、定期的に彼女たちを訪問した。クリスマスの季節には、プレゼントとして、自らが育てたニワトリを持って行くこともあった。彼はこれらの未亡人すべての葬式に出向き、生前の話をした。 ビショップとして奉仕していた間に、ワードの中には朝鮮戦争に参加していた男性が23人いた。モンソンはその一人一人に毎週手紙を書き送った。そのおかげで、少なくとも一人が再び教会に通うようになった。そして、モンソンの指導により、そのワードの出席人数が4倍に増加した。1955年6月に、27歳のときソルト・レーク・テンプル・ビュー・ステーク会長のパーシ・K・フェッツァーの顧問として任命された。モンソンは、ユタ州のホリデイ市に引っ越すまで、ステーク会長会顧問として、そのステークの初等教会(プライメリ)、日曜学校、相互改善協会、スポーツの予算の管理をした。モンソンは、ホリデイ市で教会員に協力してもらい集会場を建てるよう、ワード建物委員会会長に任命された。 モンソンの指導により、フランス語で伝道する宣教師が初めてケベック州に派遣された。そして特に、オランダ、ドイツ、ポーランド、イタリア、ソビエト連邦、ハンガリーなどからの移民への伝道を指導していた。将来中央幹部の指導者になるジェコブ・デ・ジャガーは、その移民改宗者の一人であった。 当時、たくさんの教会員がユタに移動していたのだが、モンソンは、その移民改宗者がユタ州に移動するより、東カナダに留まるように、励ました。それは、教会がもっと知られるためであった。カナダにいる教会員たちを励ますために、そしてLDS教会がなくなっていくことがないことをみんなに認めてもらい、見込みのある改宗者をよりよく勧誘できるように、大規模な集会場建築プロジェクトに取り組んでいた。その時まで、ほとんどの支部が部屋を借りて、集会を開いていた。 モンソンが熱心に奉仕した結果、1960年8月14日、トロント・ステークが組織された。しかし、伝道部の支部のほとんどは、そのままであった。 オンタリオには1990年、トロントに神殿が建てられた。モンソンは大管長会顧問として、その神殿の奉献式に参加した。
※この「地元の教会の指導」の解説は、「トーマス・S・モンソン」の解説の一部です。
「地元の教会の指導」を含む「トーマス・S・モンソン」の記事については、「トーマス・S・モンソン」の概要を参照ください。
- 地元の教会の指導のページへのリンク