国際経済改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:33 UTC 版)
クリミア戦争敗北後の急激な近代化が1858-59年の銀行危機とモーゲージ貸出停止をもたらした。ここで農奴解放令が不可避となった。また、講和を仲介したプロイセン王国という債権者がロシア内政に影響力をもっていた。プロイセンは1840年代にエレクトラル・ウールを世界中へ輸出し外貨を蓄えてから工業化した。ロシアに対しては農具を輸出し穀物を輸入するというリカード的な国際分業を達成した。1857年以降は資本輸出も盛んに行った。これを受けて1860年、ロシアは国立銀行を設置した。そして償還を計画した。完遂には農業を合理化する必要があった。そこで2つの政策が実行された。まず、ドイツ農民を受け入れる。そして、綿花のアップランド種を輸入する。農奴解放令はドイツ農民の受け入れを中間目標として実施された。法案の策定過程において、ロシア貴族は解放路線に反対した。しかし農奴解放令は制定された。国債償還のためには仕方ないことであった。ロシアの土地は処分されてゆき、その代金や、農民の所得が、ズベルバンクの元になる貯蓄となった。小ロシアではドイツ人、ポーランド人、そしてフランス資本が複雑な国際経済関係を醸成した。合理化に対する態度は、貴族の間でまちまちとなっていった。1883年にアップランドが中央アジアへ移植され、4年後に独露再保障条約が結ばれた。ロシアの資本主義は19世紀末から発展した。
※この「国際経済改革」の解説は、「農奴解放令」の解説の一部です。
「国際経済改革」を含む「農奴解放令」の記事については、「農奴解放令」の概要を参照ください。
- 国際経済改革のページへのリンク