国外から国内へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 08:02 UTC 版)
発表された当初は、コロムビアの文芸部長によって「日本にもブルースの作曲家が現われた」と『ジャパン・タイムス』で大きく取り上げられたが、会社全体での宣伝はほとんどなかった。藤浦も銀座の繁華街やバーに出かける度に宣伝し、流しのアコーディオン弾きにも歌わせていたが、売れ行きには影響がうかがえなかった。 しかし、秋になってから服部は、大連のダンスホールで活動していた南里文雄から、「別れのブルースのリクエストが多く来ること」や「それを踏まえてバンドショーの構成には必ず取り入れていること」を手紙で知らされた。一方、藤浦も、満州を旅行していた浜本浩からの絵葉書で「満州で大流行していること」や「作詞家本人を連れてくればよかったとみんなが言っていた」ことを知らされた。 また、当時コロムビアの宣伝部にいた玉川一郎も、出征した日本兵士の慰問のために満州へ行って来た横山隆一や近藤日出造や清水崑を始めとする漫画集団の面々から「満州で大流行している」と知らされた。そこで営業部に問い合わせたところ、売上げが17万枚を突破していることを知り、追い討ちの宣伝に取り掛かった。このようにして外地から火がつき、日本でも長崎・神戸・大阪・横浜と、港町を経由した末に東京で大ヒットとなり、「プレス工場は連日徹夜作業でも注文に応じきれなかった」ほどの大流行となった。
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