回紇との同盟と独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:14 UTC 版)
天宝の初め(742年頃)、抜悉蜜(バシュミル)部・回紇(ウイグル)部・歌邏禄(葛邏禄、カルルク)部の3部族は東突厥(第二可汗国)に叛き、抜悉蜜部の部族長である阿史那施を推して頡跌伊施可汗(イルティリシュ・カガン)とし、回紇部の部族長である骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)と歌邏禄部の部族長はそれぞれ左葉護(左ヤブグ)・右葉護(右ヤブグ)と称した。 天宝3載(744年)8月、抜悉蜜部・回紇部・葛邏禄部の3部族は東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)を殺し、その首を唐の京師に伝え、太廟に献上した。東突厥では烏蘇米施可汗の弟である白眉特勤(はくびテギン)の鶻隴匐が即位して白眉可汗となり、抜悉蜜の頡跌伊施可汗と対立した。その後、回紇部と歌邏禄(葛邏禄)部は頡跌伊施可汗を殺し、回紇部の骨力裴羅を奉じて骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン)とした。その後、骨力裴羅はふたたび唐に遣使を送って入朝したため、懐仁可汗の称号を拝命した。 歌邏禄(葛邏禄)は鬱督軍山(ウテュケン山)を拠点とする回紇に臣従する一方、金山(アルタイ山脈)と北庭都護府(ビシュバリク)においては葉護(ヤブグ)として自立し、唐にも毎年朝貢した。歌邏禄(葛邏禄)の葉護頓毘伽(ヤブグ・トン・ビルゲ)は東突厥の西葉護(西ヤブグ)である阿布思を捕縛した功により、金山郡王に封ぜられた。天宝の間は5回入朝した。 天宝10載(751年)、ズィヤード・イブン・サーリフの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍が、天山山脈の西北麓のタラス河畔で衝突した(タラス河畔の戦い)。この時、歌邏禄(カルルク)がアッバース軍に寝返ったために唐軍は壊滅し、大敗を喫した。 至徳(756年 - 758年)の後、歌邏禄(カルルク)は強盛となって回紇と双璧をなし、十姓可汗(オンオク・カガン:西突厥可汗)の故地(イリ地方)に移って碎葉(スイアブ)・怛邏斯(タラス)の諸城を占拠した。これ以降、歌邏禄(カルルク)は唐に入朝しなくなった。 大暦年間(766年 – 779年)の後、西突厥を受け継いだ黄姓と黒姓の突騎施(テュルギシュ)二姓は次第に衰退していったため、多くは歌邏禄(カルルク)や回鶻(ウイグル)に附き、一部はチュイ川上流に逃れた。
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