唐手(トゥーディー)の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:28 UTC 版)
「空手道」の記事における「唐手(トゥーディー)の時代」の解説
19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。この中でも、特に松村宗棍は琉球王国時代の最も偉大な唐手家の一人と言われている。琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたという。 また、この頃から薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。最初は薩摩の在番役人から示現流剣術やその分派の剣術を修業する琉球士族の一部から伝わったものと思われるが、18世紀には薩摩藩士を介さず琉球士族から示現流剣術を学ぶ者もあった。また、松村宗棍のように、薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている。また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある。[誰によって?] さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手、泊手、那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。
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