唐手の公開とは? わかりやすく解説

唐手(からて)の公開(明治時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:28 UTC 版)

空手道」の記事における「唐手(からて)の公開明治時代)」の解説

元来琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年1879年)、琉球処分により琉球王国滅亡すると、唐手も失伝の危機迎えた唐手担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族除いて瞬く間没落し唐手修練どころではなくなった。不平士族中には清国逃れ脱清)、独立運動展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党保守派)が激しく対立して士族階層動揺したこのような危機的状況から唐手救ったのが、糸洲安恒である。糸洲尽力によって、唐手はまず明治34年1901年)に首里尋常小学校で、明治38年1905年)には沖縄県中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校体育科採用された。その際読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。唐手糸洲によって一般に公開され、また武術から体育性格へと変化することによって、生き延びたのである糸洲改革情熱は、型の創作改良にも及んだ生徒たち学習しすいようにとピンアン平安)の型を新たに創作し既存の型からは急所攻撃関節折りなど危険な技が取り除かれた。 このような動きとは別に中国渡った沖縄県人の中には現地唐手道場を開いたり、また現地中国拳法習得して、これを持ち帰る者もいた。湖城以正東恩納寛量上地完文などがそうである。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地調査団派遣されたが源流武術特定できず、また中国武術についての書籍動画出回るにつれ、彼らが伝えた武術中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるうになると、近年では研究者の間で彼らの伝系疑問視する声も出てきている。

※この「唐手(からて)の公開(明治時代)」の解説は、「空手道」の解説の一部です。
「唐手(からて)の公開(明治時代)」を含む「空手道」の記事については、「空手道」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「唐手の公開」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

唐手の公開のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



唐手の公開のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの空手道 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS