呉軍港開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:01 UTC 版)
元々この地は江戸時代まで半農半漁の寒村で歴史の表舞台に立つことはなかった。現在もこの地域の主要航路である音戸の瀬戸が、1164年(長寛2年)に開通したと伝えられている。 明治に入り、第二海軍区軍港が開港することそして広島県に鎮守府が置かれることが決定し、呉・三原や江田島が候補地として挙がり、1883年(明治16年)から測量の結果、1884年(明治17年)呉に置かれることが決まった。1885年(明治18年)8月4日、山陽行幸の帰る途中であった明治天皇は、船上よりこの地を視察している。 1886年勅令第31号をもって軍港境界が定められ、真木長義中将を建築委員長、佐藤鎮雄大佐を副建築委員長とし、1887年(明治20年)11月起工した。施工業者を藤田組(フジタ)・大倉組(大成建設)がつとめ、1万人を超える人夫が現場に入っていたものの、両社が競い合って進めていた中で人夫のいざこざが絶えず流血騒ぎまで発展した。そこで海軍主導で両社を一つの企業“日本土木会社”として働くよう仲をとりもったことで、以降の工事は順調に進んでいった。1889年(明治22年)3月末竣工。 1889年(明治22年)7月1日呉鎮守府が開庁、以降軍港として急速に発展していく。
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