呂壱事件と晩年
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嘉禾6年(237年)春正月、孫権は詔勅を出し、3年の服喪のために職務を放棄する官吏に対する罰則を、定めるべきかどうか協議させた。顧譚や胡綜が意見を述べた後、顧雍が意見を取りまとめ、違反者に死刑を実施すべきと上奏した(『三国志』呉志「呉主伝」)。 赤烏元年(238年)、孫権の歩夫人が死去し、閏10月に皇后位が追贈されることになった(『三国志』呉志「呉主伝」及び「孫権歩夫人伝」)。このときの使者を顧雍が務めた(『三国志』呉志「孫権歩夫人伝」)。 孫権は呂壱や秦博を中書に任命し、諸官庁や州郡の公文書の検査監督に当たらせた。しかし呂壱らはやがて権限を濫用して、専売品や沢山の産物を自由に売買したり、他人の悪事を摘発するために、些細な出来事や偽の醜聞を大げさに取り挙げ、重臣らの経歴を傷つけて、無辜の者を罪に陥れるようになった。顧雍らもまた、謂れのない譴責を受けることとなった。しかし、後に呂壱の悪事が発覚し獄吏のもとに繋がれると、顧雍が直々に獄に赴いて取り調べにあたったため、呂壱は縄目を受けてその前に引きずり出された。顧雍は顔色を和らげて事件に対する申し開きをさせ、獄を出るときも呂壱に声をかけ「何か申したいことがあるのではないか」と尋ねた。呂壱は叩頭するばかりで何も答えなかった。尚書郎の懐叙が呂壱を面罵して辱めたが、顧雍は「官には定まった法があるため、そのようなことをしてはならない」と述べた。 赤烏6年(243年)、丞相在任のまま病死。76歳であった。死の直前、孫権は医師の趙泉を派遣し顧雍を診察させた後、末子の顧済を騎都尉に任命した。このことを聞いた顧雍は、趙泉が患者の死期を診断するのに巧みな人物であったため、自分の死期が近いことを知り、孫権に対し「私が生きているうちに、顧済を採り立ててくれたのであろう」と悲しみながら語ったという。
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