吐火仙可汗と莫賀達干とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 吐火仙可汗と莫賀達干の意味・解説 

吐火仙可汗と莫賀達干

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 02:30 UTC 版)

突騎施」の記事における「吐火仙可汗と莫賀達干」の解説

開元26年738年)夏、賀達干の勒兵は夜に蘇禄襲い、これを殺した。都摩度は初め賀達干と共謀していたが、まもなく背き合うようになり、蘇禄の子である骨啜(クチュル)を立てて吐火仙可汗とし、その余衆を集めて賀達干を攻撃した賀達干は磧西節度使蓋嘉運使者送ってこのことを報告したため、玄宗蓋嘉運命じて突騎施抜汗那などの西方諸国召集させた。一方の都摩度は吐火仙可汗碎葉スイアブ)城に拠り、黒姓可汗の爾微特勤は怛邏斯(タラス)城に拠り、共に兵を連ねて唐を拒んだ開元27年739年)秋8月乙亥賀達干は蓋嘉運とともに石(チャーチュ)王の賀咄吐屯(バガテュル・トゥドゥン)・史(ケシュ)王の斯謹提を率いて蘇禄の子撃ち、これを碎葉城で破った吐火仙は旗を棄てて逃走したが賀邏嶺(ガローリン)で捕えられ、その弟の葉護ヤブグ頓阿波(トンアパ)も捕えられた。疏勒鎮守使の夫蒙霊詧精鋭の兵を擁して抜汗那王の阿悉爛達干(アスラン・タルカン)とともに怛邏斯城を急襲し、黒姓可汗とその弟の撥斯を斬り、曳建城入って金河公主(交河公主)と蘇禄可敦カトゥン皇后)・爾微の可敦を捕えて帰ったまた、西方諸国の散亡し数万人を数えて一人残らず抜汗那王に与え諸国はすべて唐に降った9月戊午、処木昆・鼠尼施・弓月らの諸部はこれまで突騎施隷属していたが、衆を率いて唐に内附し、安西管内への移住請うた。 開元28年740年)、唐は処木昆匐延都督府の闕律啜(キョリチュル)を右驍衛大将軍抜擢し、石王に冊立して順義王とし、加えて史王に拝して特進とし、その功績顕彰してこれに報いた蓋嘉運は捕えた吐火仙可汗太廟献じ玄宗吐火仙赦し左金吾員外大将軍・修義王とし、弟の頓阿波を右武衛員外将軍とした。また、阿史那懐道の子阿史那昕を十姓可汗とし、突騎施を領させようとしたが、賀達干が怒って蘇禄討ったのは我の功である。今昕を立てるとはどういうことか?」と言い、すぐに諸落を誘って叛いた。そこで玄宗賀達干を立てて可汗とし、突騎施の衆を統べさせることを蓋嘉運伝えさせた。12月乙卯、こうして賀達干は妻子と纛官・首領引き連れて唐に降った天宝元年742年4月玄宗はふたたび阿史那昕を十姓可汗とし、兵を遣わして護送してやった。しかし、倶城に至ったところで阿史那昕賀達干に殺されてしまう。6月乙未突騎施大纛官の都摩度は唐に降ったため、三姓葉護冊立される。 天宝3年744年5月安西節度使夫蒙霊詧賀達干を討ってこれを斬り、黒姓の伊里底蜜施骨咄禄毘伽(イリテミシュ・クテュルク・ビルゲ)を立てることを申請した6月甲辰、唐は伊里底蜜施骨咄禄毘伽を冊立して十姓可汗とした。

※この「吐火仙可汗と莫賀達干」の解説は、「突騎施」の解説の一部です。
「吐火仙可汗と莫賀達干」を含む「突騎施」の記事については、「突騎施」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「吐火仙可汗と莫賀達干」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から吐火仙可汗と莫賀達干を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から吐火仙可汗と莫賀達干を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から吐火仙可汗と莫賀達干 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「吐火仙可汗と莫賀達干」の関連用語

1
突騎施 百科事典
30% |||||

吐火仙可汗と莫賀達干のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



吐火仙可汗と莫賀達干のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの突騎施 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS