史実のダルタニャンとは? わかりやすく解説

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史実のダルタニャン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 18:58 UTC 版)

ダルタニャン」の記事における「史実のダルタニャン」の解説

本名はシャルル・ド・バツ=カステルモールであるが、本人シャルル・ダルタニャンを、また爵位持っていなかったがダルタニャン伯爵名乗っていた。というのも近衛歩兵連隊カラーガードだった母方の祖父、ジャン・ダルタニャンの存在があったので「ダルタニャン」の方が通り良かったため。 1615年ごろ、ガスコーニュ誕生する次男だったとも、四男とも言われるが、いずれにせよ長男ではなく家督相続権もないため1630年頃、10代半ばパリ上京した1633年時点銃士隊閲兵記録に名前があり、この頃から銃士として活動していたと見られる1646年銃士隊解散後ジュール・マザラン腹心として、伝令のような仕事務める。1656年にはマザラン後ろ盾もあり、近衛歩兵連隊隊長代理辞令を受ける。 1657年ルイ14世の下、銃士隊再結成される。翌年前任隊長代理補が辞職すると、ダルタニャンがこの職に就任した銃士隊隊長は(形式的にではあるが)フランス国王就任することになっていたことと、また実質的な隊長代理であるマザランの甥はフランスにおらず、イタリアで過ごすことが多かったため、ダルタニャン実質的な銃士隊長に就任したことになる。 1661年にはニコラ・フーケ逮捕命令執行したこれから後、フーケ裁判が終わるまでフーケ警護なども担当するこの間エピソードであるが、1664年フーケ護送中、通り道フーケ妻子発見する。このときダルタニャンは「馬車止めてならない」との命令受けていたが、部下馬車をもっとゆっくり走らせるように指示をした。これによって、フーケ数年ぶりに妻子抱擁する時間得たという。 この後順調に出世重ね1667年には銃士隊隊長代理に、1670年にはリール総督就任している。1673年6月25日仏蘭戦争マーストリヒト包囲戦で頭に被弾し戦死した

※この「史実のダルタニャン」の解説は、「ダルタニャン」の解説の一部です。
「史実のダルタニャン」を含む「ダルタニャン」の記事については、「ダルタニャン」の概要を参照ください。

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