史実における事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 16:20 UTC 版)
古代オリエント史に基づくイスラエルのパワーゲームにおける地位からすれば、カナン人やアラム人との交流・同盟により国力を高め、カルカルの戦いではダマスコに次ぐ10000の兵士と2000両という最大の規模の戦車隊を提供して、北パレスチナの地域大国のひとつとしてアッシリアを阻んだアハブの治世と比較すれば、イエフは逆に近視眼的なヤハウェ信仰重視のイスラエル優越主義に基づき、カナン人やアラム人を敵視して国力を衰退させ、遠方の大国アッシリアに跪いたこと、これによりアッシリアのこの地域への侵入を助けたという点で後退を見せており、またイスラエルの最終的な破滅を早めたと、W. ディートリヒは評価する。 イエフ、および彼の支配するイスラエルが国際的にどのような地位にあったかについては、聖書外の資料が明示している。アッシリア王シャルマネセル3世の碑文中では、アッシリアに朝貢した地中海沿岸地方の一人の王としてイエフが言及されている。また、ニムルド(アッシリアの首都カルフの遺跡)から出土したブラック・オベリスクのレリーフには、シャルマネセル3世に跪拝(叩頭礼)して朝貢するイエフの姿が描かれている。ここでのイエフは皮肉にも『オムリの家のイエフ』と、自身が滅ぼした前王朝の名前の下で紹介されているが、これはオムリの治世が優れていたことから、近隣諸国はイスラエルの代名詞として『オムリの家』を使用していたことに由来する[要出典]。 前述の通り、聖書の記述でもこれらの兆候が表れていたことが指摘されており、歴史上のイエフは頑迷なヤハウェ信仰に基づく政策を執ってイスラエルの地位及び国力を低下させた暗君であったことがわかる[要出典]。史実に於けるアハブと同様、聖書の視点に基づく人物像とはかなり異なっていることが窺える。
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