台本作家選定の難航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 09:15 UTC 版)
「外套 (プッチーニ)」の記事における「台本作家選定の難航」の解説
もっとも、イッリカとの作業はその後進展することはなかった。気性の激しいプッチーニとイッリカの「かすがい」役を果たしていたジュゼッペ・ジャコーザが1906年に亡くなった後2人の仲はしっくりいっていなかったし、別件で、マリー・アントワネットを題材とするオペラをプッチーニが依頼したにもかかわらずイッリカが着手できなかったこと、そして1914年に第一次世界大戦が勃発、イタリアがドイツ・オーストリア側に宣戦するに及び、ドイツ贔屓として有名だったプッチーニと、愛国心旺盛でイタリアの対独宣戦を熱烈に支持したイッリカとの間には政治面での対立までが生じたことも理由である。 それでも『外套』を諦めないプッチーニは今度は新進気鋭の劇作家・台本作家ジョヴァッキーノ・フォルツァーノに台本化を依頼する。しかし意気盛んなフォルツァーノは「他者の舞台劇に手を加えるのでなく、まったくオリジナルの台本を書きたい」と言い出してこれを断ってしまう。もっともこのフォルツァーノへの接触はまったくの無駄ではなかった。「三部作」の他の2篇『修道女アンジェリカ』と『ジャンニ・スキッキ』は、こうして縁のできたフォルツァーノがほぼオリジナルの台本として提供したものである。 次にプッチーニは引退した政治家・作家のフェルディナンド・マルティーニを訪ね、台本化を依頼する。マルティーニは試稿を作成したが、それは美しい韻文であまりに格調が高すぎ、原作劇のもつ野卑でセンセーショナルな雰囲気は完全に失われてしまっていた。結局マルティーニは自分は台本作成に向いていない、としてこの任から下りてしまう。
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