古代ローマの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/13 14:29 UTC 版)
「古代の植民都市」の記事における「古代ローマの植民地」の解説
詳細は「コロニア (古代ローマ)」を参照 古代イタリアにおいては、新たに征服した地を確保し続けるため、そこに植民都市(コロニア、ラテン語: Colonia)を築くという習慣があった。共和政ローマには常備軍がなく、一部市民を一種の守備隊として征服した町に送り込み、植民地化するのが通例だった。この守備隊はローマ市民権を持つ者が300人ほど含まれ、その他の一部はラテン同盟の諸都市の市民だった。coloniae civium Romanorum(ローマ市民の植民地)はイタリアの2つの海岸線の防衛を特に意図したもので、coloniae maritimae とも呼ばれた。特に数が多い coloniae Latinae はほとんどローマ本国と同じに扱われた。 入植者を指揮し居住地を建設する責任者として、通常3人から成る委員会が選ばれた。この委員は植民都市建設後もパトロン(パトロヌス)としてその都市と関係を保ち続けた。入植者は旗を先頭に掲げ隊列を作って征服した町に入り、特別な儀式で植民都市創立を祝った。植民都市は免税され、ローマを真似た独自の運営体制を作り、自前の元老院議員や役人を選出した。このような体制に原住民は従うことになった。coloniae civium Romanorum ではローマ市民権が保持されたが、前線基地としての役割があることから兵役が免除された。coloniae Latinae はソキイすなわち同盟国として仕え、その市民はラテン市民権を保持していた。ラテン市民権を持つ者は、コメルキウムすなわち財産取得権が保証され、ローマに住むこともでき、場合によってはローマ市民権を授与されることもあった。ただし、その権利には徐々に多くの制限が設けられていった。 グラックス兄弟の時代には植民都市は軍事的性格を失っていた。マリウスの軍制改革を経て植民地拡張はローマの最下層階級を養う手段とみなされるようになっていった。スッラ以降、それは退役軍人に土地を与える手段となっていった。植民都市建設の権利はユリウス・カエサルが一般市民から取り上げ、歴代ローマ皇帝がそれを引き継いだ。ローマ帝国時代には植民都市建設は属州における軍事基地設立と同義となった。属州の植民都市が免税されたのはイタリア半島内などの例外的なケースだけだった。
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