収容所勤務将校として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:00 UTC 版)
「オットー・フォーシュナー」の記事における「収容所勤務将校として」の解説
1941年、バルバロッサ作戦によって独ソ戦が始まった。この頃にフォーシュナーは第5SS装甲師団、通称ヴィーキング師団に配属されている。しかし戦闘中に重症を負い、治療後も戦闘任務への復帰は困難と判断された為、親衛隊髑髏部隊への移動が決定したのである。1942年春にはブーヘンヴァルト強制収容所にてSS看守大隊の指揮官に着任した。 1943年9月、フォーシュナーはブーヘンヴァルト収容所の外部収容所として新設されたミッテルバウ=ドーラ強制収容所の所長に就任する。ミッテルバウ=ドーラ収容所が設置された目的は、収容者を報復兵器生産工場に対する労働力として提供する事であった。フォーシュナーはミッテルバウ=ドーラの収容所所長であると同時に、ドイツ政府が報復兵器生産の為に設立したミッテルヴェルク有限会社(英語版)(Mittelwerk GmbH)の技術部門常務も兼任していた。彼は1944年4月まで技術部門常務職を務め、後任はゲオルグ・リカリー(英語版)であった。 所長職にある頃、フォーシュナーはミッテルバウ=ドーラ収容所の運営に関してSS保安部(SD)やゲシュタポとしばしば衝突した。フォーシュナーによる収容所運営は、収容者だけでなく所員に対してもあまりに「甘すぎる」のではないかと批判されていたのである。またフォーシュナーはほとんど彼個人の独断で、常習的にドイツ共産党員の収容者から収容者組織の役員を選出していたという。 そうした事もあり所長としてのフォーシュナーの手腕はあまり評価されていなかった。1944年11月にはフォーシュナーが役員に任命した収容者の多くが、報復兵器工場内でのサボタージュ活動など秘密抵抗運動に関与していたとしてゲシュタポに検挙された。さらに1945年2月にはミッテルヴェルク社員として受け取った10,000ライヒスマルクのボーナスについて当局に申告しなかったことが明らかになり、彼は所長職を追われる事となった。後任者となったリヒャルト・ベーアはかつてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で所長を務めた将校であった 。 その後はダッハウ強制収容所に移った後、外部収容所であるカウフェリング強制収容所(英語版)の所長を務めた。
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