反政府・親政府派の衝突
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「エジプト革命 (2011年)」の記事における「反政府・親政府派の衝突」の解説
野党勢力は2月1日の無期限ゼネラル・ストライキと、タハリール広場から大統領宮殿までの100万人デモ行進を呼びかけた。これに対して政権側はデモ参加者のカイロへの流入を阻止する目的で鉄道運行休止や、首都とスエズ間の主要道路を封鎖するなどの交通規制を行った。また軍とデモ隊の衝突も懸念されたが、軍当局は銃を向けないと否定、デモ参加者への武力行使を拒絶し中立を表明して大規模なデモを黙認した。こうした中、タハリール広場で決行されたデモには20万人以上が集まったほか、アレクサンドリアで参加者5万人、スエズで2万人を超すデモが行われた。カイロでの大規模デモは騒乱が始まって以来最大規模のものとなり、軍からの支持も得られず、ムバーラク退陣は避けられないとの憶測も流れ始め、1日夜の国営テレビにおける演説にて、ムバーラクは次期大統領選挙への不出馬と、与党に有利であった選挙制度の改革を実施することを表明した。これにより、ムバーラク政権は約30年で終止符が打たれることになった。 この演説後から、ムバーラク支持を唱えるデモ隊が集結し、その一部は馬やラクダを駆って乗り付けた。ムバーラク退陣を求めるデモ隊と衝突し、大統領支持派が発砲するなどして死傷者が発生した。政府がムバーラク支持派を扇動して反政府デモ参加者に攻撃させたとの説も浮上し、当の政府はデモ沈静化という目的に反するとしてこれを否定しているが、後に、この日ラクダや馬に乗って反政府デモ隊に突入した集団は、与党議員より要請されて行なったことを認めている。支持派は一枚岩ではないほか、政権に金で雇われた者が含まれていたことが指摘されている。この衝突により、エジプト国内の深刻な分断が明らかとなった。 この衝突についてシャフィーク首相が2月3日に国営テレビ演説にて謝罪し、衝突の原因について調査を約束した。タリハール広場での衝突は続き、午後には大統領支持派が1時間以上にわたり反体制派に発砲を行った。双方を分断するため、軍によって緩衝地帯が設置された。またムバーラクは性急に大統領を辞任すれば混乱が拡大すると主張し、即時の辞任を改めて拒否したが、同時期にアメリカ政府がエジプト政府と、ムバーラクの退陣・暫定政権の樹立という政権移行を協議していると報じられた。 この間にも犠牲者は増え続け、国際連合人権高等弁務官のナバネセム・ピレイ(英語版)は2月1日の声明の中で、これまでの騒乱のために非公認ながら死者300人、負傷者3000人以上、また逮捕者数百人が出たとし、エジプト政府を非難した。
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