反国王派諸侯のリーダーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 05:27 UTC 版)
「トマス (第2代ランカスター伯)」の記事における「反国王派諸侯のリーダーとして」の解説
1307年に従弟にあたるエドワード2世が即位したが、新国王は寵臣ピアーズ・ギャヴィストンを中心とする寵臣政治を行い、諸侯と対立を深めた。ランカスター伯も反国王派諸侯の一人となった。1310年には改革勅令起草委員会(Lords Ordainers)のメンバーとなり、国王に政治改革とキャヴィストン追放を迫った。 1311年に諸侯の最長老的存在だった岳父リンカン伯が死去した後は、ランカスター伯が反国王派諸侯のリーダー格となった。彼は妻の権利としてリンカン伯の称号と所領を継承してイングランド最大の貴族となっており、また国王の従兄にあたるという出自の良さから自然と指導者に担がれた。 国外追放されたギャヴィストンはひそかにイングランドに帰国し、1312年には国王と合流して追放取り消しを受けた。これに激怒した諸侯はウィンザーへ向けて進軍し、国王とギャヴィストンはスカーバラ城で3週間籠城するも結局降伏した。ギャヴィストンは再び国外追放されることになり、その身柄は第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス(英語版)に引き渡されたが、その移送の途中にギャヴィストン助命に反対していた第10代ウォリック伯ガイ・ド・ビーチャムがギャヴィストンの身柄を強奪し、自らのウィリック城へ連行した。そしてランカスター伯や第9代アランデル伯エドムンド・フィッツアランらの立ち合いにもとにギャヴィストンを私刑の斬首に処した。この件にエドワード2世は憤慨し、またランカスター伯らとペンブルック伯の関係にも亀裂が入り、諸侯の連携が崩れた。内乱の空気さえ漂ったが、皇太子エドワード出産の慶事があったため、危機は回避された。 その後、王と諸侯の和解が進められたが、ランカスター伯は反国王の立場を鮮明にし続け、諸侯の中でも次第に孤立した。彼は諸侯のリーダーというだけでなく、宮廷派と対立する地方領主を多く傘下に置いており、彼らの利害の代弁者でもあったので国王との妥協はできなかった。
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