反ド・ゴール活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/18 04:38 UTC 版)
「イーヴ・ゴダール」の記事における「反ド・ゴール活動」の解説
シャルル・ド・ゴール大統領の政策に不満を持っていた多くの将校達は、同じく不満を持つ過激なピエ・ノワール達と共に1960年、バリケードの一週間を引き起こす。当事件において黒幕として反ドゴール活動を行っていたが、抗議行動は崩壊し、加担した将校達も本国に召還された。 ゴダールもその一人で、最もアルジェリア情勢に詳しく経験も豊富な彼は怒りのうちに帰国した。そこで彼を待っていたのは在ポーランド大使館付武官の人事であった。彼に懐かしの地ではあったが、筋金入りの共産主義嫌いであったのでこれを受け入れることはできなかった。やむなくスヴェール駐屯部隊、次にメス駐屯部隊とたらい回しにされたが、メスの地にてアルグー大佐と合流し、ジャック・フォール将軍など、次第にアルジェリアに因縁深い落下傘部隊の元連隊長達と密談を交わすようになった。 1961年4月20日、かねてから準備していた通りに将軍達の反乱を実行した。この際ゴダールは情報活動を取り仕切る責任者であったが、アルジェに戻ってきた嬉しさのあまり、作戦の詳細情報を記入した書類入りの鞄を道路に置き忘れるという失態を犯している。4月23日、ゴダールが詳細に計画したパリの政経中枢部制圧作戦を実施する予定であったフォール将軍が逮捕され、計画につまずきが見え始めた。翌4月24日、叛乱は失敗に終わり、ゴダールはアルジェ市内にあるピエ・ノワール出身の女性ジャーナリストが住むアパートに潜伏。その後、欠席裁判で死刑判決が出た。
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