南円堂の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:43 UTC 版)
南円堂(なんえんどう)は、中金堂からみて南西(南大門の西方)にある八角円堂である。興福寺の主要仏堂のうちではもっとも遅く、平安時代に入ってからの創建である。『興福寺流記』によれば、弘仁4年(813年)、藤原冬嗣によって建立された。 南円堂は永承元年(1046年)の大火、治承4年(1180年)の平重衡の兵火、嘉暦2年(1327年)の大火で焼け、その都度再建された。江戸時代の享保2年(1717年)の大火では中金堂、講堂、西金堂などとともに焼失。藤原氏ゆかりの本尊を祀り、西国三十三所9番札所でもある南円堂の再建は他の堂に先駆けて計画されたが、それでも再建には長い年月を要し、現存する建物が完成したのは寛政元年(1789年)のことである。 本尊は不空羂索観音坐像である。『興福寺流記』講堂条に引く「宝字記」によれば、初代の本尊不空羂索観音坐像は、藤原北家の藤原真盾らが亡き両親(藤原房前と牟漏女王)のために、天平18年(746年)に造立したもので、もとは講堂に安置されていたが、後に南円堂に移されたという。ただし、同じ『興福寺流記』の南円堂条には、この不空羂索観音坐像は藤原内麻呂(真盾の子、冬嗣の父)の造立とされている。 『興福寺流記』に引く「弘仁記」によれば、堂内には本尊の他に、四天王像、善珠僧正像、玄賓禅師像、供養僧形4体が安置されていた。当初の像は治承の兵火で焼失し、復興像は康慶一門が造立し、文治5年(1189年)に開眼供養されたことが、九条兼実の日記『玉葉』から判明する。 現存する南円堂の内部は、中央部を8本の柱で囲まれた須弥壇とし、中央に不空羂索観音坐像、その周囲に四天王立像4体、法相六祖坐像6体を安置する。不空羂索観音坐像は鎌倉復興期の作で康慶一門の作、法相六祖坐像6体は、前述の「弘仁記」にあった「善珠僧正像、玄賓禅師像、供養僧形4体」に相当するものでやはり康慶一門の作である。四天王像についても康慶一門の作であるとみなされている。現・中金堂四天王像(2017年まで南円堂安置)は鎌倉時代の作ではあるが、本来の所属堂宇は明らかでない(現・中金堂四天王像はもと北円堂にあったとする説もある)。
※この「南円堂の概要」の解説は、「興福寺の仏像」の解説の一部です。
「南円堂の概要」を含む「興福寺の仏像」の記事については、「興福寺の仏像」の概要を参照ください。
- 南円堂の概要のページへのリンク