勾玉と外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/05 08:24 UTC 版)
朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されている。このことから、戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと解釈していた。 戦後に至り、一時期、朝鮮から日本へ伝来したものという根拠に欠ける新解釈を提唱する学者も現れた。 しかし、勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった。 中国の『後漢書』では「"出白珠青玉"(倭では真珠と青い玉が採れる)」と記されてあり、『魏志倭人伝』によると、「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉(孔青大句(勾?)珠二枚)を献上した」と記されている。また『隋書81巻 列伝46』によると、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記しており、勾玉とくにヒスイ製勾玉が交易品として重要な意味を持っていたことがうかがわれる。
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