加古川の河川舟運
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 17:12 UTC 版)
物流 加古川の河川舟運は、姫路藩による河川改修や都市開発によって大きく発展し、変遷を遂げてきた。沿岸各地域からの農作物や、織物、刃物などの工芸品などの物資は河口部に新たに造成された計画都市・高砂に集められ、ここから海運で大坂と中継することで広域物流ルートを形成するにいたった。そのため、加古川流域は上方との結びつきが強く、生活文化でも大きな影響を受け、播磨国の中でも特徴的な地域となっていた。 闘龍灘は高瀬舟が通るには水の流れが激しすぎるため、途中で荷物の積み下ろしを行う必要があり、舟運にとってのネックであった。これを解消するべく1873年(明治6年)に最後の開削工事が行われた。1913年(大正2年)、中流から下流にかけて川と並行するように線路が敷設された播州鉄道(現JR西日本加古川線)の開通以後、物流構造が変化し、舟運は鉄道に代替され姿を消した。 渡船 船町の渡し跡 黒田の筏場 畑瀬の渡し跡 福地と蒲江の川わたり(浅瀬) 大門舟着場跡 太閤渡し跡 嘉市渡し跡 市場舟着場跡 下来住舟着場跡 国包の渡し跡
※この「加古川の河川舟運」の解説は、「加古川」の解説の一部です。
「加古川の河川舟運」を含む「加古川」の記事については、「加古川」の概要を参照ください。
- 加古川の河川舟運のページへのリンク