前田製紙の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/07 10:10 UTC 版)
前田製紙合名会社は1900年(明治33年)に発足した。 創業者の前田正名は薩摩藩出身の官僚で、農商務省次官などを務め、退官後は貴族院議員となった人物である。1891年(明治24年)前田は殖産興業政策に積極的で、屈斜路湖一帯の皇室所有林(御領林)の森林資源を元にパルプ工場の建設を企画していた当時の釧路町長らに勧誘されてパルプ事業に乗り出すことになった。前田や、前田の知人で敦賀の銀行家大和田荘七、京都の紙商中井三郎兵衛、大倉財閥の渋谷喜助の三氏が出資し、資本金20万円で合名会社の前田製紙は設立された。 パルプ工場の用地は、釧路川河畔で釧路川と別保川の合流地点のやや北にあたる釧路郡釧路町天寧が選ばれた。同地は、釧路川および阿寒川流域の森林から木材を搬入するのに便利であった。工場用水を川の水に求めることができ、石炭や硫黄(硫黄は紙の漂白に使われる。)などの物資も周辺の地域で産出されていた。現在の釧路市域に近いことから労働力の確保が容易で、釧路港から製品搬出も可能である、という利点もあった。工場の建設にあたり富士製紙に技術支援を要請していたが、同社は新工場建設で余裕がないとして断り、富士製紙創業者の一人で当時は兵庫県で製紙工場を経営していた真島襄一郎を紹介したことから、真島が工場建設を担当した。建設にあたっては、当時の釧路は工業が未発達で、鉄道はなく船便も本数が少なく交通の便の悪い土地であり、資材の不足に悩まされた。 1901年(明治34年)5月、工場は操業を開始して亜硫酸パルプ (SP) の生産を開始した。しかしパルプの販売は不振で、冬季になると寒さで設備の不備が露呈し、工場の操業も不調となった。損失を重ねた結果前田製紙としての存続が断念され、更生のため北海紙料に改組することになった。
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