制作実行内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 14:47 UTC 版)
「長野市茶臼山恐竜公園」の記事における「制作実行内容」の解説
当時は、実物大の恐竜を作る前例が皆無だった。制作を引き受けた日東商事は主に、博物館の模型を作る業者だったが、前例がない恐竜を作ることに試行錯誤を重ねた。実施側は東京で制作が始まると何回も上京をして、打ち合わせ、注文を行った。そして、特に恐竜の色は生き物らしい工夫を求めた。 1980年(昭和55年)5月 前年から制作していた恐竜15体の模型が完成した。更埴市に部品を保管しつつ、茶臼山での組み立てが始まった。実施側は作業を通して、作業員と意見が食い違うことも多々あった。特に、色彩をつけていく段階で作業は難航した。筋肉の伸縮とそれに伴う、色の変化を出すことが予想以上に困難だったためだ。そこで、長野市街から通ってきている職員からイモリを貰って研究を進めた。動く時の肩や足の付け根の筋肉の動き、色の変化を記録した。 そのほか、様々な生き物を参考にして、恐竜は作られていった。例えば、ステゴサウルスを制作、着彩する際は亀の首のしわをモデルにした。観察結果に基づく考えは、帆かけ竜のアロサウルスといったものにも生かされた。悪戦苦闘の末、恐竜関係の作業が完了したのは7月に入ってからだった。 本格的なオープンは同年の7月27日と決まっていた。そのため家族連れが来ることを意識したアズマ屋を設置することになった。しかし、茶臼山は斜面のため、ごく当たり前に建てると日陰になる面積が狭くなる。屋根や、地面がどれだけの角度を保っていれば、対象が長く日陰にいられるかが課題だった。 そこで小さな斜面を作り、太陽の動き、影の関係を調査、記録して設計に持ち込んだ。 1980年7月27日 オープンに伴い長野駅発の送迎バスが運行開始した。 1981年(昭和56年)さらに8体の恐竜が制作された。恐竜公園としての名称も定着した。
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