初期のインドのロケット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:51 UTC 版)
「コングリーヴ・ロケット」の記事における「初期のインドのロケット」の解説
戦術としては、ティプー・スルターンと彼の父であるハイダル・アリーが、歩兵の陣列に対し、砲兵旅団によるロケットの大量投入という運用方法を開発した。ティプー・スルターンは『ファトフル・ムジャーヒディーン』と呼ばれる軍事書を著述しており、「Cushoon」と呼ばれるマイソールの各ロケット砲兵旅団は、200名のロケット砲兵から成ると規定している。マイソール王国では歩兵による16個から24個のcushoonを保有した。ロケットと花火が製造された町の地域は、「Taramandal Pet」として知られた。 こうしたロケット砲兵は、彼らの持つロケットを、シリンダーの直径と目標の距離から角度を計算して発射するよう訓練されていた。加えて、戦闘に投入された車輪付きのロケット発射器は、5発から10発のロケットをほぼ同時に発射することが可能であった。ロケットには数種類のサイズがあったが、通常は打ち延ばされた柔らかい鉄製チューブの一端を閉じたものを用いた。大きさは8インチ(20.3cm)長、直径1.5から3インチ長(3.81cmから7.62cm)である。ロケットは、これと4フィート長の(1.22m)竹製の軸を縛着して構成された。この鉄製チューブは、推薬として良好に充填された黒色火薬の収容部であり、また燃焼室として働いた。1基のロケットは1ポンド(0.45kg)の火薬をほぼ1,000ヤード(914.4m)にわたって運んだ。対照的にヨーロッパのロケットは鉄製のケースを用いず、燃焼室は大きな圧力に耐えられなかった。この結果、大距離に到達し得なかった。 ハイダル・アリーの父であるファトフ・ムハンマドは、インド南西部カルナータカ地方のブーディコーテ(Budikote)で治安維持を努める長官であり、アルコットの太守のために50名のロケット砲兵を指揮した。ハイダル・アリーの時代には、マイソール王国のロケット部隊の通常編成は約1,200名であった。ハイダル・アリーは、はじめて鉄製のケースを用いたロケットを戦争に投入した。
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