初期のアメリカ人の日本への探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:05 UTC 版)
「日米関係」の記事における「初期のアメリカ人の日本への探検」の解説
1791年にアメリカ人の探検家であるジョン・ケンドリックによって率いられた2隻のアメリカ船が紀伊半島の南にある紀伊大島(現在の和歌山県東牟婁郡串本町に属する島)に11日間停泊した。彼は日本を訪れた最初のアメリカ人として知られている。彼はアメリカの国旗を掲揚して、アメリカによる島の領有を明白に主張したが、彼の訪問について日本にはその記録は残っていない。 1797年から1809年にかけて、数隻のアメリカ船がオランダ人の要求により、オランダ国旗が掲揚されている下、長崎で交易を行った。彼らはイギリスとのナポレオン戦争のため、自国籍の船を派遣することができなかった。 1841年、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド」は難破した船に乗っていた中濱万次郎と他の4人を救助した。 1837年、広東のアメリカ人実業家チャールズ・W・キングは数年前にオレゴンの海岸で座礁し、日本に帰国しようとしていた3人の日本人(その中には音吉がいた)を通して自由貿易を行おうとした。彼は武装していないアメリカの商船モリソン号とともに浦賀水道に向かった。船は数回にわたり砲撃され、帰還は失敗に終わった。 1846年、日本との自由貿易を築こうとしたアメリカ政府(当時、民主党ジェームズ・ポーク大統領)の指令により、派遣されたジェームズ・ビドル提督は2隻の船とともに東京湾に停泊した。貿易の合意を求めた彼の要求は失敗に終わった。 1848年、ジェームス・グリン艦長は長崎に向けて航行し、アメリカ人が鎖国状態にあった日本との交渉で初めて成功を収めた。北米への帰還の途上、グリンはアメリカ合衆国議会に日本に対し開国を求める交渉は軍事力の示威行動による裏付けによるべきだと進言した。この方法はのちのマシュー・ペリー提督による遠征において踏襲された。
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