出生から上京・鉄道経営への参加
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「早川徳次 (東京地下鉄道)」の記事における「出生から上京・鉄道経営への参加」の解説
山梨県東八代郡御代咲村(現在の笛吹市一宮町東新居)に生まれる。父の常富は御代咲村長を務めた人物で三女四男をもうけ、徳次はその末子である。母「ゑひ(栄)」は徳次出生の翌年に死去している。長兄の富平は山梨県会議員を務めた人物で、笛吹川廃河川を開拓したことで知られる小松導平も兄にあたる。 旧制甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て第六高等学校(現在の岡山大学)に入学するも、2年の時に病気になり中退を余儀なくされた。その後、上京して早稲田大学に入学する。父や兄と同じように政治家を志し、在学中に後藤新平の書生となった。 1908年(明治41年)に早稲田大学を卒業すると、後藤が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社した。後藤が逓信大臣と鉄道院総裁に就任すると満鉄を辞職し、鉄道院に入局する。早川は妻の叔父である望月小太郎から東武鉄道の二代目社長にもなった同郷の根津嘉一郎を紹介される。 早川が鉄道と本格的に関わるようになるのは郷里の先輩である根津に見出されてからである。根津が株を取得していた佐野鉄道(現在の東武佐野線)は苦しい経営状態が続いていたが、1911年(明治44年)に根津から見込まれ、依頼されて同社に赴任した早川は見事にその経営再建に成功した。続いて1912年(明治45年)に、沿線開発が進まず予想より輸送量が低迷したことや、高コスト体質が元で赤字経営が続いていた高野登山鉄道(現在の南海高野線)も根津から任せられると、早川はこの会社も2年半ほどで立て直し、期待に応えた。これらによって根津の右腕となり辣腕を振るった。
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