出版業から自由民権運動、三井銀行時代
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「武藤山治 (実業家)」の記事における「出版業から自由民権運動、三井銀行時代」の解説
帰国後、東京銀座の横町に日本で初めての広告取扱業「新聞広告取扱所」をおこす。雑誌『博聞雑誌』を橘良平と共に発刊し、全国各地で販売された。続いて英字新聞社の『ジャパンガゼット新聞社』に入社し、翻訳記者となる。しかしまもなく、福沢諭吉の紹介で後藤象二郎の知遇を得て秘書となり、「大同団結運動」に参加。「丁亥倶楽部」が結成されると、主筆のターナーと共に『ガゼット』紙で運動を支援した。 民権運動が終結すると、ガゼット社を辞し1888年(明治21年)にドイツ人・イリスの経営するイリス商会に就職し、陸海軍向けの武器商品を取り扱った。岡本貞烋の紹介により、1893年(明治26年)に三井銀行に入社のち神戸支店副支配人となる。三井銀行本店支配人の斎藤専蔵とのちの男爵・三井高保、中上川彦次郎の下で三井財閥の改革の一翼を担う。中上川の下、朝吹英二、津田興二、村上定、野口寅次郎、小林一三、菊本直次郎、西松喬と並んで重用され、中上川の死去後の三井財閥総帥となった益田孝や早川千吉郎の下でも側近として活躍することになる。
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