再びパリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/21 16:56 UTC 版)
1928年、パリでの活動を再開し、しばらく5区に住んだ後、17区のノレ通り(フランス語版)に越し、ここに6年暮らした。マックス・ジャコブは、今度は画家として身を立てようと考え、早くも1930年には、同郷のピエール・コルや画商ジャック=ポール・ボンジャン(フランス語版)の協力を得て、パリとニューヨークで個展が行われた。マックス・ジャコブが住んでいた地区には、作曲家のアンリ・ソーゲ、インド学・音楽学の専門家アラン・ダニエルー(フランス語版)、1928年にジャック・ボンジャンと、次いで1930年にはピエール・コルとともに18区に画廊を構えたクリスチャン・ディオール、画家のクリスチャン・ベラール(フランス語版)らの若い芸術家が多く住み、かつてのモンマルトルのような活気があった。マックス・ジャコブは当時まだ20代であったソーゲのためにオペレッタ『ティツィアーノの愛』の台本を書いて彼の活動を支援した。 1929年にピエール・コルとともに車でブルターニュに向かう途中、交通事故に遭い、カンペールの家族のもとで療養することになった。数か月にわたるカンペール滞在中に、当時同地で活動していた英国生まれの若い画家クリストファー・ウッドに出会った。ウッドはこのとき、《マックス・ジャコブの肖像》(1929年、カンペール美術館蔵)を描いた。翌1930年にソールズベリーに戻ったウッドが自殺し、マックス・ジャコブは深い悲しみに打ちひしがれた。
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