共同統治者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/10 09:31 UTC 版)
「メアリー2世 (イングランド女王)」の記事における「共同統治者時代」の解説
フランスに追放されたジェームズ2世は革命後、フランス軍の支援を得てカトリックのアイルランドに上陸し、ジャコバイトを率いてイングランドに対する反乱に立ち上がらせた(ウィリアマイト戦争)。スコットランド高地地方でも反イングランドの反乱が起こり、ウィリアム3世はこれらの反乱鎮圧のために出陣し、本国オランダも大同盟戦争でフランスと戦争していたので、ほとんどロンドンにいなかったため、イングランドの留守はメアリー2世が預かる形となった。 メアリーには政治的な手腕があったとされ、1690年にウィリアムがアイルランドへ出陣した時は彼が任命した顧問団と共に留守を任され、その間にイングランド・オランダ連合艦隊がフランス艦隊と交戦してビーチー・ヘッドの海戦で大敗すると、この戦いで見捨てられた形のオランダに対しては謝罪し、責任者のトリントン伯アーサー・ハーバートを捕らえてロンドン塔へ送り、イングランド国民の団結を図った。ウィリアマイト戦争終結後もウィリアムは大同盟戦争で大陸に出陣したため、引き続き不在のイングランドを顧問団と共に統治した。 ウィリアムとの間に子供は生まれなかったため(3度とも流産)、後継者は妹のアンに決まっていたが、アンとは居住区画の拡大と財産分与の問題を巡って関係が悪化し、背後に女官サラ・ジェニングスが影響力をおよぼしているのに気づき、1692年にアンにサラの解任を求めた。アンからは拒否され絶交となり、サラの夫で軍人のマールバラ伯ジョン・チャーチルはウィリアムに解任された。アンはサラと共にサマセット公チャールズ・シーモアとエリザベス・シーモア夫妻から借りたロンドン郊外のサイオン・ハウスに移り住み宮廷から背を向け、メアリーも同年に生まれたアンの子供が夭折した時にアンの見舞いに訪れた後は、二度と会おうとしなかった。 1694年、メアリー2世はケンジントン宮殿で天然痘により崩御し、以後はウィリアム3世の単独統治となった。メアリーの崩御後、ウィリアムとアンは和解してマールバラ伯夫妻も宮廷に復帰、1702年のウィリアムの崩御後、権利の章典の取り決めによりアンが即位した。
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