公共放送の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 01:24 UTC 版)
「正力マイクロ波事件」の記事における「公共放送の立場」の解説
古垣は後にフランス大使となってレジオン・ド・ヌール勲章を受勲した人物となったが、この時は高野岩三郎会長の後任として日本放送協会(以下「NHK」)の舵取りを任されていた。今回の視察旅行も、イギリスとアメリカのテレビ放送の運営について研究するのがテーマであった。NHK技研は戦前より続けていたテレビ研究を1946年1月より再開、1950年11月には定期実験放送を開始していた。また中継回線についてもマイクロ波中継の試作装置の開発を進め、翌年の暮れに完成させる事になる。テレビ放送の実現のために布石を打っているNHKだが、問題はラジオに比べてテレビ受信機はその数が圧倒的に少ない点であり、受信環境の整備にあった。 国内の製造機器メーカーの技術も外国に比べ遅れており、まだ量産体制に入っていなかった状態では「テレビは時期尚早」の声も少なからず聞こえていた。古垣も開発研究の動きを見てから「カラーテレビから始めてみても」と口にしている現状の日本では、民間テレビ放送局を立ち上げても採算が取れるとは思えず、古垣たちは柴田が「テレビに進出する」と言った事について「アメリカで作った古い受像機を日本のテレビメーカーに売ろうとしているのか」ぐらいにしか考えていなかった。
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