公、王として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:06 UTC 版)
「イシュトヴァーン4世」の記事における「公、王として」の解説
1162年7月にラースローはカロチャ大司教ミコーから戴冠されるが、大司教ルカーチは追放された若イシュトヴァーンに忠誠を誓い続け、ラースローを簒奪者と見なしていた。ラースローの即位後、イシュトヴァーンは「ハンガリー人の間で王権の継承者を意味する」「urumの地位」を授与された。ミューゲルンのハインリヒはラースローがハンガリー王国の3分の1と公爵の称号をイシュトヴァーンに与えたことを記し、歴史学者のFlorin Curtaはイシュトヴァーンの公国にはハンガリー王国の南部が含まれていることを指摘している。 1163年1月14日にラースロー2世は没し、13日後にイシュトヴァーンが新たな対立王として戴冠される。大司教ルカーチがイシュトヴァーンへの戴冠を拒否したため、戴冠式はカロチャのミコーによって執り行われた。ルカーチはイシュトヴァーン4世に破門を宣告し、彼の統治は不法であると宣言した。また、イシュトヴァーン4世はハンガリーの高位聖職者に教皇アレクサンデル3世への使節の派遣、教皇特使(英語版)との面会を禁じていたことが伝えられている。 現存する憲章の中でイシュトヴァーン4世は「イシュトヴァーン3世」を自称しており、キンナモスはイシュトヴァーン4世の人物像について「暴虐であり、ハンガリー国内の主要な有力者に対して非常に圧迫的であるように思えた」という記述を残している。ハンガリーの貴族の一部はイシュトヴァーン4世に対する陰謀を企て、ハンガリーから追放されている若イシュトヴァーンを支持した。1163年3月にイシュトヴァーン4世の要請を受けたマヌエル1世はハンガリーに軍隊を派遣するが、ビザンツ軍接近の報告は若イシュトヴァーンの立場を強化したため、マヌエル1世は軍隊に退却を命じた。しかし、退却の命令は遅く、ビザンツ軍がハンガリーから撤退して間もなくイシュトヴァーン4世に対する反乱が勃発した。 追放されていた若イシュトヴァーンはフリードリヒ1世の承認を得て、ドイツ人傭兵とイシュトヴァーン4世に不満を抱くハンガリー人貴族を招集し、軍事行動を開始した。1163年6月19日にセーケシュフェヘールヴァールで決戦が行われ、イシュトヴァーン4世は敗北を喫する。戦闘の中でイシュトヴァーン4世は捕獲されるが、若イシュトヴァーンは大司教ルカーチの助言を受けて彼を解放した。
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