入塾、文部省出仕
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明治3年(1870年)2月に川本幸民の私塾に入学し、閉校までの数か月間教えを受けた。同年11月には権少参事の職を退き、翌年2月に慶應義塾(後の慶應義塾大学)に入塾して英語などを学んだ。この頃から隆一と名乗っている。明治5年(1872年)4月に文部省に十一等出仕し大学南校の監事、同9月には大学東校事務主任となる。 当時、国内の教育予算のうち40%弱が海外に派遣されていた260名の留学費用に充てられており、文部省としては彼らの留学を打ち切ってその費用で外国人教師(お雇い外国人)を招聘することを考えていた。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や優秀な学生の機会獲得のため、九鬼は文部省の方針に積極的に賛同していた。 そこで、現地で留学生の実態調査と帰国の説明・説得にあたるため、九鬼は明治6年(1873年)に渡欧している。当時の留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、当初は強い反発を受けたが、中江篤介(後の中江兆民)の理解などもあって最終的に全員の承諾を得ることができた。なお、制度変更後の第1回国費留学生には、政治家となった鳩山和夫、外交官となった小村寿太郎などの人材がおり、結果的に九鬼の目標は達成されたと言える。
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