余分な感受性との訣別へとは? わかりやすく解説

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余分な感受性との訣別へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:26 UTC 版)

アポロの杯」の記事における「余分な感受性との訣別へ」の解説

三島は、『仮面の告白』(1949年)を書いたことと、この最初の世界旅行とで「私の遍歴時代」はほぼ終わった位置づけており、それまで10代から20代前半までの「自分甘えてきた感覚的才能」から訣別し、「何としてでも生きなければならぬ」という思いと、「明確な理智的な、明る古典主義への傾斜」が20代後半にあった振り返っている。25歳の頃の三島は、自身を「へんな、ニヤニヤした二十五歳の老人」だと考えしょっちゅう胃痛悩まされ自分の中の「化物のやうな巨大な感受性」への嫌悪生まれていた。そしてそんな自分打開し新し自分発見したいという思い募り外国旅行出たい考えていた。当時心境三島は以下のように述べている。 私に余分なものといへば、明らかに感受性であり、私に欠けてゐるものといへば、何か、肉体的な存在感ともいふべきものであつた。すでに私はただの冷たい知性軽蔑することをおぼえてゐたから、一個彫像のやうに、疑ひないやうのない肉体的存在感を持つた知性しか認めずさういふものしか欲しいと思はなかつた。それを得るには、洞穴のやうな書斎研究室閉ぢこもつてゐてはだめで、どうしても太陽媒介要るのだつた。そして感受性は? こいつは今度旅行で、靴のやうに穿きへらし、すりへらして、使ひ果してしまはなければならぬ。濫費するだけ濫費して、もはやその持主苦しめないやうにしなければならぬ。 — 三島由紀夫私の遍歴時代三島それまで自分自身強く向けられていた眼差し外部世界へ開きこれから職業作家として高めるべき「自己改造」の契機として世界旅行企図し、憧憬の地・ギリシャハイライトとする旅に赴いた古代ギリシャ人が「外面」を信じたこと、「精神」を発明したキリスト教文化よりも、古代ギリシャの「肉体知性均衡」に「美」価値を置く文化は、「感受性」の磨滅求めている三島の旅の目的合致していた。

※この「余分な感受性との訣別へ」の解説は、「アポロの杯」の解説の一部です。
「余分な感受性との訣別へ」を含む「アポロの杯」の記事については、「アポロの杯」の概要を参照ください。

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