住人の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 22:58 UTC 版)
「コーアチェラ・バレー」の記事における「住人の歴史」の解説
20世紀初期、アメリカ合衆国中から1,000人足らずの常駐住民が「村」(パームスプリングス)と周辺の農場や牧場、およびインディアン居留地に住んでいた。1930年国勢調査では、コーアチェラ・バレー人口の半分足らずが「白人」であり、残りはメキシコ系であり、特に東部には地域内の鉄道を維持するためのトラケロ(メキシコからの鉄道労働者)が多く、また地元のインディアンは貧窮化した居留地に住んでいた。 1890年代、スコットランド移民のウェルウッド・マーレイとアメリカ東海岸出身のアメリカ人ジョン・ガスリー・マッカラムが共同で「パームバレー」と呼ぶ農業コロニーを設立し、これがパームスプリングスとなった。その後はアイルランド系とスコットランド系住民が多かった。設立した2人はこのコロニーを「暖かい気候と理想的な冬の住居」ができると開拓者達に宣伝した。1900年代初期に東海岸(ニューイングランド)、カナダおよびイギリスからの出身者が多かったのはこのためである。 地域の人口が成長したのは第二次世界大戦後にイタリア系やポーランド系住民が増えたことであり、その多くは「リトルタスカニー」と呼ばれるパームスプリングスの地区に入った。その後、ドイツ系、フランス系およびスカンディナヴィア系住人が加わった。今日カナダ、ヨーロッパおよびオーストラリアから多くの観光客が訪れ、ある者は定住する。イギリス人は休暇のためあるいはしばしば引退のためにパームスプリングスなど砂漠の都市に来ることが増えている。
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