伝承・来歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 09:47 UTC 版)
1041年(長久2年)の大干ばつの際、伊予国司藤原資業の使者として能因が大山祇神社で雨乞いを行った。このことは『金葉和歌集』や『能因法師集』に詠まれている。「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と幣帛(へいはく)に書付け祈請を行うと、伊予国中に一昼夜(能因法師集)、あるいは三日三晩(金葉和歌集)にわたって雨が降り続き、喜んだ村人は能因に餅を送ったという。能因がこのクスノキに前述の幣帛を掛けたとの伝承があり、このため「能因法師雨乞いの樟」と呼ばれるようになった。 1322年(元亨2年)には境内のクスノキが火災により大被害を受けた。これは兵火によるもので、大山祇神社の建造物ことごとくが焼失する大規模な騒乱であった。 1721年から1722年(江戸時代の享保6年から7年)にかけ洪水が起こり、再びクスノキが被害を受けた。この時洪水により楠の諸木が枯れたため公儀により水抜きが仰せ付けられ、622人が従事し、扶持として一人当たり米1合5匁ずついただいた。能因法師雨乞いの樟は一度枯れたが、8月になって芽を出したとも記述がある。 享保年間の越智諸島の様子を記した『越智嶋旧記』以降の記録は知られておらず、1722年の洪水の後、樹勢が回復したか、あるいはそのまま枯れたか記録が残っていないが、1926年(大正15年)に描かれた境内図では葉をつけていない。 1951年(昭和26年)6月9日付で、「大山祇神社のクスノキ群」の一部として、枯死してはいるが国の天然記念物に指定された。
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