休業と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:20 UTC 版)
1943年(昭和18年)の地震によって軌道は休業に陥った。町では善後策を講じ、ひとまず自動車での運行に切り替えて存続をはかるため、鉄道大臣に代替免許の申請を行った。この申請書によれば、「軌道事業の公債の償還」が8万円余り残っているうえに休業中の職員の手当も必要で、ただ町の税収で埋め合わせするだけでは窮乏するため、自動車輸送での事業継続の必要があるとことだった。しかし、戦時中で手続きが進まず、許可が得られないままだった。当時の町長が大阪の鉄道局長の佐藤栄作に相談したところ、事業の休止を勧められ、営業休止の手続きを行った。このため、書類上の「休止日(休止届)」は1944年(昭和19年)1月11日となっている。 休止後、遊休になってしまった鉄道設備や車両は、北海道の炭砿や千葉県の九十九里鉄道へ供出された。これと引き換えに、岩美町の負債12万円が免除された。 翌1944年(昭和19年)9月16日から18日にかけて、鳥取を大雨が襲った。各地で堤防が決壊し、前年の地震で崩壊していた鉱泥を押し流して水田に流れこみ、鉱毒の被害が広範囲に拡大した。これで銅山は閉山になった。一帯の水田では数年の間、全く米が収穫できなくなった。 手続き上はあくまでも「休止」であったものの、荒金鉱山が事実上廃坑となって事業の再開の見通しはなく、終戦の混乱の影響もあって岩井町では鉄道事業は「廃止」となったものと見なしていた。しかし書類上は「営業休止」のままになっており、1964年(昭和39年)になってようやく正式に廃止許可手続きが行われた。このため記録上は1964年(昭和39年)3月27日が「廃止」日となっている。
※この「休業と廃止」の解説は、「岩井町営軌道」の解説の一部です。
「休業と廃止」を含む「岩井町営軌道」の記事については、「岩井町営軌道」の概要を参照ください。
- 休業と廃止のページへのリンク