伊予黒川氏とは? わかりやすく解説

伊予黒川氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 10:00 UTC 版)

黒川氏」の記事における「伊予黒川氏」の解説

越智氏河野氏支流一族戦国時代伊予国周敷郡小松丹原東予一部)の旗頭となり、約50年ここを治めた治承・寿永の乱源平合戦)における奥州合戦1189年)において功績をあげた、河野宗家河野通信の子河野通綱(黒川信綱)が始まりである。通綱は、奥州黒川郷(宮城県三迫)を拝領したころから黒川氏名乗った。 ところが、承久の乱1221年)において、河野通信官軍方に付くも、幕府軍北条方に敗北して奥州平泉配流され、河野家所領五十三箇所、公田六千町歩没収され一族四十七人所領も殆ど没収された。唯一幕府軍についた河野通久その後阿波国富田庄拝領していたが、没収され宗家領地だった伊予国幕府申し出て再度河野家有する所となる(河野通久の母(河野通信の室)は北条時政の女とあり、この特例処置は分らなくは無い)。承久の乱後の混乱により、黒川信綱も黒川郷で密かに潜伏したのではないか思われるその後文永年間密かに伊予帰り住したが、文永年中没した享禄元年黒川元春(通尭)剣山築城黒川家十四代総領初代周布旗頭)の黒川元春(通尭)は初め長宗我部秦元春(長宗我部元親叔父と言う。元春は十三黒川通矩を頼って伊予に来た、通矩は元春の面構え眼光見てこの乱世必要な人物とみて、修行が終わるのを待って、妹の婿に迎え黒川姓を名乗った。通矩は元春に千足山黒川の坦の城を譲り、自らは明河赤滝城に移った。この時から黒川家両端と成る。 子孫陸軍中将男爵貴族院議員務めた黒川通軌がいる。 持城剣山城・坦ノ城・山城中森城・幻城・松尾城大熊城・鉢森城赤滝城・榎木城・大曲砦・黒川本

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